のどかな海辺の風景と史跡がコラボで楽しめる 三浦半島・浦賀から久里浜を巡る旅

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渡し船から浦賀の眺望が楽しめる

 

浦賀の町歩きの続きです。

東叶神社のある東浦賀から対岸の西浦賀へと向かうことにしました。

直線距離はさほどでもないのですが、海岸線をまわると結構な距離を歩かねばならない。

でも、ここには渡し舟があるのですね~。

渡し舟といっても、矢切の渡しのような木造船ではなく、こちらの船は江戸時代の御座船をイメージしたという強化プラスチック製の船ですな。

川ではなく、こちらは一応海ですからね。

料金は150円で、3分ほどで対岸まで運んでくれます。

行った日は、わりと風が強く、結構揺れたので料金以上の迫力を満喫できました。

浦賀ドックや浦賀水道を取り巻く山なども、海から眺めると別の景色のように感じられます。

 

社殿の彫刻が見事な西叶神社

 

西浦賀の町に降り立ち、まず向かったのは、西叶神社。

さきほど行った東叶神社と浦賀水道を挟んで、どちらも叶神社というのが正式名称とのこと。

区別するために、東叶神社、西叶神社というらしいのですが、どちらも同じルーツの神社なのですね。

1692年の元禄年間に、浦賀村が東と西に分かれたとき、入江を隔てた東側の叶神社を若宮、西側の叶神社を本宮としたのですか。

どちらも、歴史を感じさせる立派な社ですが、東叶神社が背面に小高い丘を背負っているのに対し、西叶神社は街中にある印象を受けました。

西叶神社の見所は、江戸時代後期に建造されたという社殿。

まわりに230を超える彫刻があり、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているそうな。

 

浦賀水道が一望できる愛宕山公園

 

西叶神社の近くにも小高い丘があって、公園にもなっているらしいので行ってみることにしました。

木々に囲まれた急坂を上ると、港に面した木立の間から、浦賀水道が一望できます。

漁船や浚渫船などがたくさん停泊していて、今も浦賀港は重要な役割を果たしているのですね。

かなり大きい船もあり、狭い浦賀水道ですがかなり水深があるのだろうと思いました。

向こう岸に半島のように見える小高い丘は、さきほど登った明神山、もとい浦賀城址。

房総からの敵に備えるには打ってつけの地形だと理解できますね。

この公園は、愛宕山公園というらしいのですが、かつては浦賀園とも呼ばれ、横須賀で一番古い公園なのだとか。

丘の上には、咸臨丸出港記念碑が立っていました。

碑の裏には、咸臨丸の乗組員の名前が彫られており、勝海舟はもちろん、慶応の創立者の福沢諭吉の名前もあります。

 

浦賀の町は興味深い歴史スポットがいっぱい

 

丘から降り、海の近くへ行ってみることにしました。

この桟橋は、通称「陸軍桟橋」というらしい。

この曰くありげなネーミングがなければ気づかず通り過ぎてしまうような桟橋かも。

ところがこの桟橋。太平洋戦争終了後、南方や中国大陸から引き上げてきた人たちが、懐かしい日本への第一歩をしるした場所なのですか。

その数は56万人とも言われているらしい。

大変な思いをして帰国した人たちが、この浦賀の風景をどんな思いをして眺めたのでしょうか。

小さく、お世辞にも立派とはいえない桟橋ですが、当時の人たちの思いが染み込んでいるような気がしました。

お散歩マップを見ながら、源為朝ゆかりの為朝神社にお参りします。

住宅地を小高い山のほうに向かって歩いてゆくと、団地というか企業の社宅になっている一画がありました。

これもどこにでもある普通の団地に見えるのですが、よく見ると、堀と石垣で囲まれているのがわかります。

堀と石垣といえば城跡?と条件反射してしまうのですけど、堀も狭いし、石垣も低いっす。

なんとここは、浦賀奉行所の跡なのですね~。

海よりではなく、かなり内陸の多少不便な山の近くにあるというのは、異国船による砲撃を意識したからでしょうか。

当時の建物はすべて失われていましたが、奉行所の約2000坪の区画がそっくりそのまま団地の跡地になっているのですな。

結果的に当時の堀や石垣が残ったのでしょう。

先ほど浦賀コミュニティセンターの分館で見た、浦賀奉行所の模型から当時の姿をイメージしました。

ここに奉行所が置かれたのが、1720年。下田から浦賀へ奉行所が移されたのですね。

海難救助や地方役所としての機能があったそうですが、なんといっても異国船から江戸を防備するための海防の拠点として、重要な役割があったらしい。

ここには、与力10騎、同心50人の役人たちが勤めていたそうで、幕末にペリーが来たときは、天地がひっくり返ったような大騒ぎがここで行われたのでしょうね。

今の静けさからすると、信じられないような気がしました。

 

江戸から明治時代に使われた灯台が復元されている

 

ここから再び海へ向かって歩きます。

お散歩マップのコースではありませんが、せっかく海へ来たら砂浜も見たいじゃありませんか。

…ということで、ヨットハーバーやお洒落なレストランを横目に燈明崎と呼ばれる場所に向かいます。

ここは江戸時代には浦賀港の入り口に当たるところ。

燈明というネーミングからも解るとおり、江戸時代、岬の突端には「浦賀燈明堂」があったそうな。

燈明堂は、今で言えば灯台。当時は一日も休まず、航路の安全を守ってきたそうですから、多くの船が浦賀港を出入りしていたのですね。

岬の高台には、当時の燈明堂が復元されていました。

灯台のような建物を想像していたのですが、なんとも変わった建物ですな。

強風に対処するためか、四方につっかい棒があるようで、こんな建物見たことない。

上の障子で囲まれた部分の中に、菜種油で光を灯し、その光は約7.4キロの海上四海里まで届いたそうな。

まわりは公園になっていて、小さな砂浜や岩礁などもあって磯遊びが楽しめそう。

この景色は、ペリーがやってきた当時とあまり変わらないのでしょうか。

だとすれば、この先に巨大な黒船が4隻も浮かんでいたのですね。

 

当時の面影を残す江戸と浦賀を結ぶ浦賀道

 

燈明崎から海岸線を歩いて西叶神社の近くまで戻り、内陸部を歩いて久里浜駅を目指して歩きます。

途中、古い家や店、蔵などが残っていて、当時の面影が偲ばれました。

バス通りに別れを告げ、高坂小学校の下の細い道をテクテク登ります。そこから住宅街を過ぎ、やがて樹木に囲まれた切通しの道に入ります。

緑あふれる公園というより、昼尚暗い原生林みたいだなと思ったのですが、このあたりは江戸時代、「御林」といって、浦賀奉行所が支配した幕府の御用林だったらしい。

江戸城は何度か火災に見舞われましたが、復興にはここからも大木が切り出され、江戸へ運ばれたそうなんですよ。

椎の樹木帯が陽光を遮り、江戸と浦賀を結ぶ浦賀道の面影をよく残していました。

幕末、ペリーが来航したとき、急を告げる知らせが何度もこの道を往復したのでしょうか。

 

縄文時代の貝塚と中世の城跡が共存するスポットがある

 

真福寺というお寺の前を回り込むように続く道を歩き、最後に向かったのは、怒田城址。

はじめて訪れる城ということで胸がときめきます。

それにしても、怒田城は「ぬたじょう」と読むそうですな。パンフにふりがながなければ、「おこったじょ~」と読み間違えそう。

「ちゃんと城跡が残ってないと、怒ったじょ~」と叫びつつ、自分の秀逸なジョークにうけてしまってゲラゲラ笑いながら前に進みました。

怒田城は、源平盛衰記にも登場する城だそうですが、すると平安末期から鎌倉時代に栄えたのですな。

なれば、きっと丘の上にあるはずと、目をつけた緑あふれる丘陵へ一直線。

急な山道をあがると、解説板があって、やはりドンピシャ、ここが怒田城址なのでした。

この時代の城はほとんど山城だからですが、さっきの浦賀城に比べるとずいぶん内陸へ入ったところにあるなと思いました。

あとで調べてみると、当時の久里浜湾はこの辺りまで深く入り込んだ入江になっていたのですね。

ここに城を築いた三浦一族は、ここからもう少し奥まった場所にあった衣笠城を本城に、今より深く入り込んだ湾を取り囲むそれぞれの山に城を築いたみたい。

すぐ近くまで迫った海に、三浦水軍の軍船がつなぎ止められていて、そこは今も舟倉という地名になっているそうですね。

パンフには、源頼朝が石橋山の合戦で敗北したとき、三浦一族も平家方に追いまくられて、衣笠城に立てこもったと書かれていました。そのとき、三浦義明の孫である和田義盛が「怒田城のほうが要害堅固だから、そちらで籠城して戦いましょう」と進言したと伝えられています。

当時は、今とは違って海に囲まれ、難攻不落と考えられていたのでしょうね。

確かに、本城の衣笠城が落城するとき、その後安房に逃れた頼朝と合流する三浦一族は、この怒田城から船で逃れたと考えられるそうな。

そんなにすごい城だったのですね、この城は…。

今は、空堀や土塁、土橋の跡などが残っていますが、当時の城の面影を伝えるものは少ないです。

それにしても、城を作ったとき、縄文時代の貝塚を掘り返しちゃったのですね。

縄文時代の貝塚と中世の城跡の解説板がコラボであるのは珍しいかも。

やっぱりどの時代の人も、目をつける一等地は同じかもしれませぬ。

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