幕末の日本が震撼! 黒船が襲来した町 三浦半島・浦賀を歩く

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巨大UFO襲来のようなインパクトがあった幕末の黒船

今回行ったのは、神奈川県三浦半島の浦賀です。

浦賀といえば、日本史の好きな人は幕末を思い浮かべるかも。

江戸時代末期、アメリカの海軍提督ペリー率いる四隻の黒船が来航したのが浦賀沖なのでした。

それによって、泰平の眠りから叩き起こされた日本は、幕末の動乱を経て近代国家へと歩み始めるのですね。

「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にうたわれたのは有名の話。

恥ずかしながら、今までその意味がわからなかったんですよ。

今回浦賀へ行って、ようやく秀逸なジョークが理解できました。

なるへそ~。笑点でそれを答えたら、座布団二枚は確実にもらえそう。

そのココロはのちほど…。

ところで、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は、全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名くらいだったとか。

今でも、そこそこの大きさの船ですが、当時の人たちから見たらガミラスの遊星爆弾や未知との遭遇の巨大なUFOが飛来したくらいの衝撃だったのでしょうね。

当時の日本の巨大船といえば千石船。

大きさは20メートル前後で、重さは100トンくらいでしょうか。

当時の人から見たら、「島が動き出したような船」という表現も誇張ではないような気がしました。

ところで、黒船が黒いのは、防腐・防水のためにタールを塗っていたかららしい。

マグマ大使に出てくるゴアの宇宙船も黒だし、宇宙戦艦ヤマトに登場する超巨大戦艦も黒。鉄人28号のブラックオックスも黒ですよ。

黒い巨大なものがいきなり現れたら、民衆がパニックを起こすのは必然のような気がしました。

そんな当時の風雲急を告げる状況をイメージしながら、浦賀を旅してみようか、と…。

 

今も残る巨大造船施設跡・浦賀ドック

ウォーキングのスタートは、京浜急行の浦賀駅です。ここはターミナル駅でもあるのですな。

駅を出ると、巨大な倉庫のような建築物が続いています。

これらの建物は、100年以上にわたって船を建造してきた浦賀ドックの跡なのだとか。

京急の駅でもらったお散歩マップによると、浦賀ドックは平成15年に閉鎖されたみたい。

日本丸などの帆船や青函連絡船、大型タンカー、自衛隊の艦船などもここで作られたのですね~。

入り口は質素ですが、歴史と威厳を感じました。

中は見学できないので、敷地の外の通りをずっと歩いてゆくと、やがて塀越しにドライドックが見えてきました。

お散歩ガイドによれば、「背が高い人は、背伸びをすれば塀の向こうのドックが見えます」と書いてある。

おお~、私も背伸びをすれば中がよく見えまする。

175センチということで、背が高いという基準が最近、適用されなくなってきたと感じていたので、すこぶる気を良くして眺めました。

歴史を感じさせるドックですが、それもそのはずで明治32年に作られたのだとか。隣に見えるクレーンは、昭和18年に作られ、一つだけ解体されずに残っているクレーンとのこと。

最盛期は、こんなクレーンが建ち並んで、巨大な艦船を作っていたのですね。

少し山のほうへ歩き、浦賀コミュニティセンターの分館へ寄ってみました。

浦賀の歴史を紹介する小さな博物館なのですが、浦賀奉行所やペリー艦隊、勝海舟で有名な咸臨丸の模型などがあって興味深かったです。

奉行所の与力だった中島三郎助という人をはじめて知りました。幕末の船の建造や函館の五稜郭で幕府方として戦って戦死するなど、波乱に満ちた生涯を送ったのですね。

ところで、先ほどの「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」という狂歌。

この狂歌にでてくる上喜撰とは、上質のお茶のことだとか。お茶にはコーヒーと同じカフェインが含まれていて、飲みすぎると夜眠れなくなりますよね。

そこで、上喜撰と蒸気船をかけ、黒船が現れたことによって、日本人が夜に眠れなくなるほどの衝撃を受けたということを表現したのですね。

それを知って、思わず、パチパチパチと拍手したのでした。

 

源氏の天下に貢献した、夢が叶う神社がある

浦賀コミュニティセンター分館を出て、再び浦賀駅のほうへ戻り、対岸の東浦賀と呼ばれる地域へ向かいます。

浦賀水道を右手に眺めながらテクテク歩き、着いたのが東叶神社。

東叶神社というからには、西叶神社もあるのだろうかと思ったのですが、その通りで、浦賀の港を挟んで東西の叶神社が向かい合っているのだそうな。

叶神社とは珍しいネーミングだと思いました。

社伝によると、平家物語にも登場する文覚上人が、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、よい土地を選んで神社をたてることを誓ったらしい。

結果は見事、源氏の再興どころか、天下を取ってしまったのですね~。

そして文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられているとのこと。

夢が叶うから叶神社とは、実に人々のニーズを的確につかんだネーミングですな。

これはしっかりお参りしなければ、と鳥居をくぐります。

社務所の裏に洞窟のような場所があったので行ってみると、ここは勝海舟が咸臨丸での太平洋横断の前に、ここで水垢離をしたのだとか。

その奥には、勝海舟が使用したという井戸がありました。

そのあと、この神社の裏山となっている明神山山頂で断食をしたらしい。

お寺や神社のこういう因縁話は、多少眉につばをつけて聞かないといけない部分もありますが、時代が近いからこれはホントだろうと思いました。

石段をあがり、しっかりお参りをしたあと、振り向くと青い海が見えます。

海に面して立つ神社も趣があっていい。

 

房総の山並みが一望の浦賀城址

境内の左手には、裏山へと続く急な階段があります。

上ろうかどうしようか迷っていると、神社のおじさんに声をかけられました。

頂上にのぼると海が見られるよ、とのこと。

う~ん、海は上らなくても見られるし、どうしようかなと思ったら、なんとこの丘は城跡だと仰るではあ~りませんか。

それを早く言うてくだされ~、上ります、上ります、とお礼を言い、脱兎のごとく石段を目指します。

言われてみれば、海に向かって山が半島のごとく突き出した地形ですから城跡だと疑わない私がどうかしていました。

25年以上も前にもこの神社に来たことがあるのですが、当時のガイドブックには城跡という記載がなかったような。

あとで調べると、ここは浦賀城といって、小田原北条氏における水軍の海賊城だったらしい。

北条氏と激しい戦闘を繰り広げた三浦道寸の築城らしいですね。

確か、司馬遼太郎の「箱根の坂」で読んだことがあったなと思いつつ、急な石段を上りました。

さすがに戦国時代の城跡だけあって、難攻不落さが実感できます。

もっとも当時は、頂上まで続く石段なんてなかったから、もっと大変だったと思いますが…。

ようやく、頂上にたどりつくとそこには石垣に囲まれた社がありました。

その近くには、勝海舟が断食をしたといわれる場所に解説板が。

海が見えるという崖の近くに行くと、広い東京湾を挟んで房総の山並みが見渡せます。

当時は、房総の里見氏との争いの拠点として、この城が重要な役割を果たしたというのも頷けました。

この見晴らしは、三浦半島へ侵入する里見水軍の前線基地として打ってつけだったのでしょうね。

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